いつまで続く「東南アジアでナゾの重労働ワークショップ」…とはいえ
実際ココでも「過酷だ過酷だ」とブータレてばかりだが、こと「やりがい」だけで言ったら何10年もやってきた東京の仕事よりはるかにあったマレーシア仕事。
あんなにガキどもと外国語でコミュニケーションする(しようと努力する)事も、あんなに仕事で日焼けする事ももう今生では無いだろうと。

初日に比べてだんだん人数が減ってきた気がするが、いろいろと複雑な経済の問題があるらしく、事情に疎いガイジンはツッコまないことに
日々の“癒し”は「2度と体験できなそうな現地の文化」に触れることで
毎日の海外ハードワークを乗り越えられたのは、ホントに親切にもてなしてくれたスタッフやホスト・ファミリーのお陰様なのは言うまでもない。
名物サテ屋を始め、それ以降ハマってお馴染みになったKLの中華街、特に何度も行かなくていいけど初ならマストな「バトゥ・ケイヴ」、できれば1度で御免被りたい「中華薬膳屋」など、いろいろ連れてってもらったな〜。
そんな中でも印象深かったのは、ある夜連れて行ってもらった学校近所のナイト・マーケット。

基本、KL近辺の観光化された夜市に比べるとやっぱ、暗いよね。食い物だけじゃなくホントに様々ロコのものが売っている。ニオイも含め、忘れ難い
「ブキット・メワ・ナイト・マーケット(Pasar malam Bukit Mewah)」ね。ガチ地域密着型の夜市で、地味ながらそういう雰囲気満点。
「わあ!多分一生、2度と来ない場所だな〜」感も満点で、なるべく現地のよくわからないものを食べる事に。
…もはや名前も忘れた甘辛の何かを屋台で買って、付属の竹串で手にぶちぶち穴を開けられながらみんなでシェア。
ああ、また明日からもハナシ通じないガキども相手に創造するぞ!と気分をリセットしてやる気を出したものだ(嘘つけ)。

現在、どうなっているのか不明だが、何とかコロナ禍も乗り切って続いていてほしい、ナイス・マーケット
“立ちはだかる壁”には事欠かないのが東南アジア仕事
ゴミみたいな材料で(っていうな)作った中途半端なサイズのビッグ・パペットを、黄博士のシナリオに沿ってどう演技させるかというのが課題だったのだが、この手しかないかなと。
井桁に組んだ竹の棒上に人形を据え、いわゆる「神輿」型にしたことで芝居にも対応できるように考案(実は遣い方を何も考えてなかったのがバレる前に)。
猿の住処から切り出したゴツい竹の使い道も決まり、遣う子どもたちと反比例して俺の肩はドンドン軽くなって行ったりして。

仕方ないから作り方を実践したが、結局安全保障含めて責任あるパートは全部自分でやる羽目に…
いよいよダンスやパーカッション担当のアーティストも合流し始めリハーサル。ドンドコドンドコ、シャンシャカシャンシャン始まった。
…大概の舞台ではもうこの辺から演出・舞監の領域に入り、だいぶ美術は楽になる頃合いなハズなのだが…
思わぬところから思わぬ意見が。
この企画のプロデューサーを務めるオバ様先生が視察の際に曇り顔。運動場の隅っこで黄博士となんか深刻な立ち話。なんか雰囲気アヤシげで見ないフリ。
後に言いづらそうな顔の博士から聞かされたのは、曰く…
「私が思ってたより、小さいんだけど」
え?今?
この辺りは日本でも大して変わらないプロデューサー的な方面から発せられる「今ゆう?おまゆう?修正」の典型なのだが、こんな東南アジアでは流石にアタマ抱えたね実際。
そうねえ…

さあ、始まったリハ。台湾のパーカッショニストの軽快なリズムも加わっていよいよページェントっぽくなって…ってタイミングで大体スコールが来襲。ズザアアアー!つって聞こえないって何にも
まあ、今出来てる分はコレで突き進むんで、他の手考えますわ。

オトナの複雑な事情などどこ吹く風、で出来上がりつつある変なパペットたち。これは「新しい都市」役の人形ね
テレビや舞台なんかの現状のシステムでは実際、頻発するトラブル対応こそが業務のキモで。
「ゲンバ対応・臨機応変」ってのだけが得意技なんで(その場しのぎっていうな)、どうカマしてやろうか模索。
先述ローカルのナイト・マーケットやホスト・ファミリーの優しさ、楽観的な現地人のおおらかなマインドに日々癒されてきた事で、東京で働くよりもだいぶ図太くなっており、大概の壁には動じなくなってるからこちとら。
さてこのレポートも、終盤に突入。いよいよヘンテコリンなビッグ・パペットたちがパレード、ページェント(野外劇)の本番に向かって行く。
次回あたりで最終回にしようかな。
◉野磁馬



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